


実は街は植物で溢れている。彼らは色、カタチ、ニオイなどで「ここにいるよぉ」と静かなるメッセージを出している。そこには時として胸を打つドラマがあったりもする。そんなやもすると見過ごしてしまいそうな愛すべき彼らにあまり肩肘張らずにゆる~いカンジでスポットライトを当てる。日々の「あれ何だろう?」という好奇心に素直に向き合うブログ。
この前行った とんかつ屋さん。
ちょうどお昼時ということもあって、ちょっと並んで入った。
座ったのはカウンターの席。
目の前にあったのはトックリのような入れ物に入った何かの枝だった。
何かの枝などという表現をしたのは何故かというと一見してそれが何かが分からなかったからだ。
何故かというと、残念なことに葉も花も萎れて枯れてしまっていたからだ。
じっと見ていて なんで枯れた枝を飾っていて平気なんだろうか? と疑問に思わずにいられなかった。
写真で見える枝の先端にあるものがカサカサに萎れた葉だ。
同席した人に これは何でしょうかね と聞かれたので、それが何かを判別するために乗り出して枯れた枝を見た。
どうもコデマリ Spiraea cantoniensis もしくは、ユキヤナギ Sipraea thunbergii のいずれではないかと思われた。
結局花の付き方からしてコデマリであると結論付けた。
ヨカッタ、何だか分かって。
よく、これ何でしょうか と聞かれることがあるが、聞かれるたびにドキドキする。
尋ねる方は花咲ジジイゆえ、当然知ってるだろう という期待のもと質問をあびせてくるわけだ。
しかし花咲ジジイはあくまでも花咲ジジイであって、植物学者ではない。
なんとか持てる知識を結集して答えを探す。
まさに綱渡り的日常と言えよう。
このときはちょうどカウンターの隣の席に座っていた女性も僕らの会話に関心を寄せている雰囲気を感じ取っていたのでなおさら緊張した。
もしこの女性が植物通で瞬時にこの枝が何の枝か分かっていて、さらに花咲ジジイがとんでもない答えを口にしていたら・・・・
考えすぎだろうか。
自意識過剰ってやつだな。
話がそれてしまった。
言いたいことは、せっかく美味しいとんかつやさんなんだから、花くらい枯れたものでなくいきいきとしたものを飾っておくれよ ということ。
花一輪は気持ちをアゲてくれるけど、枯れた花は逆に気持ちが沈んでしまう。
料理だってイキイキとした花を見て食べるのと、枯れた花を見て食べるのでは味わいにも差があるように思うのだけどどうだろう?
花って不思議だね。
ここは文京区東京大学前。
学校関連のニュースとして各校で卒業式、入学式が自粛、もしくは縮小されているということを聞く。
頑張って受験戦争を勝ち抜いた人、頑張って学業を修めた人が節目としてのセレモニーを迎えられないというのは何とも気の毒な気がする。
東大前の本郷通りを自転車で駆け抜けたときに ンっ?! と思ってブレーキをかけた。
通り沿いにある木々が、随分デカクないか?と思ったのである。
普通こういう場合、ケヤキだったりイチョウだったりするけど、いずれも落葉樹。
この大きな木々は葉っぱがワサワサと茂っている。
これはクスノキだ。
樹高は20メートル以上ある。
大きなクスノキといってスグに思い出すのは以前花咲ブログで書いた明治神宮のご神木となっているクスノキ。
あれは樹高もさることながら、幅も含めて全体的に大きなクスノキだ。
これは背は高いながらも、一方で道路に面し、一方で建物に面しているので、かなり窮屈な場所で頑張っている。
根をどこにおろしているかといえば、東京大学の敷地内なので、所有・管理は東京大学の管轄なのだろう。
これだけ大きなクスノキが整列しているのはなかなか珍しいと思う。
それにしても、木というのは伊達に何十年、何百年と生きているわけではない。
そばに寄ればとてつもない生命のエネルギーをひしひしと感じる。
元気がなくなったら大木に抱きつくというのはあながち悪いアイディアではないと思うな。
昨日のブログを読んで あれっ、花咲ジジイのところには花が一輪だけじゃなかったの? と思われた方もいらっしゃるかもしれない。
そうなんです、自分で買ったのは一輪。
これは間違いない。
この前 「花で人を幸せにする講義」 というタイトルで恐れ多くも花のプロフェッショナルの方々にお話する機会があった。
そのときにチューリップとガーベラを 分解(解剖) して普段気付かない花の不思議に目を向けてみようってなことをやった。
そのときに主催者の方に用意していただいたのがチューリップとガーベラだったのだが、これが余ったというので 是非! といって頂戴してきて家で活けたのであった。
花一輪だったはずが、突如として花長者のようになってしまったというわけだ。
毎日せっせと水をかえて今も楽しんでいる。
そのときに、とある会社の社長さんとお話しする機会があったのだけど、その社長さんの実行していらっしゃる内容に胸を打たれた。
花を扱う会社なので、普段から社員の皆には花を買って家で活けてみて欲しいと思っていたそうだ。
でも花を買うといってもお金の掛かることなので、
花は人を幸せにできる手当 という通称 花手当 をもうけて毎月一定額を支給しているのだそうだ。
スバラシイ!!!!
ちょうど花咲ジジイが 小さなシアワセ運動 を提唱したのと奇しくも目指すところは同じである。
でも花は人を幸せにできる手当で、昼ゴハンを食べたり、タバコを買ったりしてしまってはいないんですかねぇ
なんて失礼と知りつつも大胆かつ率直な質問をぶつけてみたところ、そういう輩はおらず、皆花を買って楽しんでいるのだというお答えが帰ってきた。
手当というと子供手当なんかが最近の話題ではあるが、良いじゃないですか花手当。
さらに花は人を幸せにできる手当というネーミングがイカしていると思うなぁ。
通勤手当、皆勤手当、職務手当などの脇に花は人を幸せに出来る手当なんて書いてある給与明細はかなりステキな感じがする。
この前うかがった友人宅の庭にジンチョウゲの甘い香りが漂っていた。
ああ、春なんだなぁ と鼻をヒクヒクさせてその香りを吸いこんだ。
一部は咲いていたけど、一部はまだツボミが硬かった。
そのツボミの固いやつをちょっとだけ分けてもらって家に持ち帰った。
とりあえずマグカップに水を入れて、ちょこんと入れておいた。
2日ほど経つと机の上から甘い香りが漂うようになり、花咲ジジイの部屋はジンチョウゲの香りで満たされた。
もともと胸がギュっとなるくらい思い入れのある香りだけになんともシアワセな気分になった。
かれこれ1週間近くなるがまだ咲いている。
こうやって庭先にある花をそっと活けるというのは、花を一輪買ってきて活けるよりもさらに敷居が低いというかとっつきやすいのではないだろうか。
なんてたって原価ゼロ、しかも新鮮である。
何でも良いからやってみると面白いと思う。
ところでジンチョウゲの香りは何気なしにそこはかとなく漂う程度が良いのだと思う。
イザ自分の部屋がジンチョウゲの香りで満たされると、一定時間後になんだか満腹になって、しまいには自分の部屋から別の部屋に移動させてしまった。
子供のころプリンが大好きで台所にあったバニラエッセンスの小瓶の蓋を開けて鼻を近づけては恍惚としていたことがある。
ある日思い余ってあろうことがバニラエッセンスを鼻頭に塗った。
子供の浅知恵とはこのことである。
塗ってしばらくは恍惚としていたが、スグに満腹になり鼻からその香りを取り除けたいと思った。
洗っても洗ってもバニラのニオイは落ちない。
最後には気持ち悪くなってグッタリしてしまった。
何事もほどほどってもんがあるんだよなぁなんてことを思いながらジンチョウゲの残り香のする部屋の机に向かってこのブログを書いている。
この前のブログ でジンチョウゲとミツマタは同じ科でとても近い仲間だと書いたけど、今日のジンチョウゲの写真を見てくれたまえ。
枝が見事にミツマタになっているではないか。
こんなところに真実が。